麒麟の空間は、柔らかく暖かい日差しに包まれていた。
「『迷宮』って……小さい頃に、ここに来てたら大喜びで駆け回ったんだろうけど」
目の前に広がる光景に、ルージュは少し肩の力が抜けるのを感じた。
真っ直ぐには目的の場所にたどり着けない構造をしているのだから、たしかに迷宮には違いない。だが、目の前に広がる光景は、試練という言葉が全くもって似つかわしくない。
プレゼントの箱や、ふわふわの焼き菓子にしか見えない材質で作られた通路。
食器の類も、ご丁寧に角が丸く加工されている徹底っぷりだ。
これではまるで――
(侵入者を拒むというより……誰かを『保護』している……?)
迷宮の主――麒麟という名の聖獣だと、案内役の巫女姫は教えてくれたが。
彼はいったいどんな意図で、この空間を作り上げたのだろう。
考えて足を止めるよりは、さっさと迷宮を突破し本人に訊く方が早いだろう――気を取り直し、足をすすめていくうちに、ルージュの中でどうしても拭えない違和感が増していく。
自分はここに来たことはない、はずなのに。
知っている場所のような気がしてならない。
体の大きさを変える、魔法の薬の在り処を知っていた。
天井にしか見えない場所が歩けることを、知っていた。
そうして、進んでいくうちに雰囲気が変わり――神殿の柱のような影が見えてくると同時に、かすかに届くようになった美しい旋律。
(え――噓だ。どうして、この歌声――)
いつの間にか、流れ落ちていた涙。片手で拭い、さらに迷宮の奥へとルージュは進む。
歌声に宿る魔力は、かつて雪山で聴いたときとはわずかに雰囲気が違う。
どこか懐かしいのに、何故か胸の奥でチリチリと燻る違和感をも、ルージュに同時に抱かせる不思議な歌。
ルージュが知らない言語であるせいか、意味はわからない。
けれど、宿る魔力に感じられる感情には何故か――攻撃の意思がまるで感じられないのだ。
むしろ、包み込むような暖かさすらある。
なのに、どうしてこの歌声はルージュを不安にさせるのだろう。
とても大切なことを、忘れてしまっているような気がしてならない。
たどりついた先は、円形に配置された白い柱に囲まれた広場だった。
天から穏やかな光が差し込むさまは、ルージュの故郷にもあった祈りの聖堂に雰囲気が少し似ていた。
足元には硬い石のような質感があるのに、ゆったりと流れる雲が見える。
青空のようにも見えるが浮遊感は全く無くて、しっかりと地面に足を付けて歩いている感覚がある――不思議な材質で出来た空間。
そこに、空術の資質の所持者が居た。
足元に彩雲を纏い、艶やかな毛並みを持つ聖獣――麒麟。
ルージュに気づいたのか、麒麟は振り返る。
人間であるルージュに、獣の姿をしている麒麟の表情の変化を読み取ることは難しい。
「考えたことは、無かったのか」
獣の姿のまま、麒麟は人の言葉を紡ぐ。
人よりもはるかに長い時を生きる、妖魔にも似た「人ならざるもの」独特の雰囲気をまとってはいるが、聴く者に決して威圧感を与えることのない、穏やかな声だった。
双子の術士が送り出されるのが、マジックキングダムの慣習であるのなら。
どうして「この世にただ一人しか持つことが出来ない」時空の資質の所持者が代替わりしていないのか――と、麒麟はルージュに問いかける。
時術に関しては、内側から資質所持者が封印を施していた――時間の止まった空間では呼吸すら出来るはずがないのだから、そもそもたどりつけるはずもない。
では、空術は?
「神社の巫女姫――彼女が、案内を拒んだから?」
「愚かな――」
ルージュの返答に、ため息をついて麒麟は否定する。
確かに、麒麟に逢うためには、ドウヴァンの巫女の導き無くしてたどり着くことはできない。彼女が拒めばそれまでだ。
けれど。先程の返答は――
(どうして彼は、自分を憎ませようとしているんだろう……)
先の自分の返答が、間抜けな答えだとルージュ自身にもわかっている。わかってはいたが、髪一筋ほどの細い希望であっても、すがりたいと思ってしまう。
ここまできて、話し合いで資質を譲り受けるなんて選択が許される筈はないのに。
効率と理屈を重視する魔道王国にあって、他者とのかかわりや信頼など――どちらかといえば感情面での判断を重視するルージュは、異端だった。
(――今頃ブルーは……時術の継承者に会えているのかな……)
ルージュの脳裏に浮かぶブルーの姿は、今も幼いあの日のままだ。
双子なのだから、鏡に映った自分を見ればわかりきったことで。ブルーも自分と同じように成人した姿になっているのは間違いないのだが、どうしてもルージュは青年の姿のブルーを思い浮かべることができない。
おかしな話だと自分でも思う。けれど、学園の中での厳しい魔術訓練のときも、資質を集める旅の中でも……萎えそうになる心を奮い立たせるときに思い出すのは、いつも。魔道王国の学園に連れて来られた日に分かれたままの、幼い姿の兄なのだ。
「出来れば、貴方を傷つけることなく資質を譲り受けたかった――」
「言っただろう。私には、『空術の資質を譲る気はない』と」
欲しければ、自分を殺して奪い取れ――と、目の前の聖獣はルージュに開戦の意思を告げる。